kazemachi blog

ロック聴きのひとりごと

この空白を返す日まで

 17年以上も同じ時を過ごしてくれた、愛犬との別れを経て、半年が経つ。予想はしていたけど、当たり前のようにそばにいてくれたものがいなくなってしまうということを受け入れられるようになるのは、なかなか難しい。頭では理解しようとしても、身体が受け入れてくれない。胸の真ん中にぽっかりと、底の見えない空洞があるような、いや実際あるんだけど、それをどうしたらいいのか、全くわからないままだ。だってちょっと前までここにいて…と考え出すと止まらなくなるので、考えないようにする。別れってこういうものなんだと、この歳になって今さらながらに気づく。
 そして、今までずっとそうだったように、受け止めきれないことを何かに頼るように、音楽を聴く。リーガルリリーのライブに行こうと思ったのも、そんな時だった。7月2日、日比谷野外音楽堂。今、YouTubeで配信されたそのライブの1曲目、「ジョニー」を見ながら、あの時感じたことを思い出した。

 リーガルリリーを知ったのは、セントチヒロ・チッチが銀杏BOYZの「夜王子と月の姫」のカバーで、バックで演奏しているMVを見たとき。3ピースで、見た目と違った轟音が気持ち良かった。めっちゃカッコいい。でもちゃんと聴き始めたのは、去年の始めに「たたかわないらいおん」を聴いて、歌詞が気になって気になって何度も聴いたとき。そこから遡って初期の曲も聴いた。
 そしてアルバム「Cとし生けるもの」にどっぷりはまった。たかはしほのかの曲の世界は、常に何かに対して叫んでいる。ふわふわした歌い方が、あるとき一瞬で爆発する。いや、ふわふわしているのは、爆発する準備かもしれない。誘っておいて、思いっきり、撃つ。自分が感じている違和感を、世界に放って、そしてどうなるかを確かめているように。
 静寂と轟音。優しさと激しさ。どの曲も、ゼロからMAXまで振り切った音を鳴らす。
 インタビューでたかはしほのかは、音楽を作るきっかけは、「怒り」の感情が大事だと言っていた。明らかに、彼女の歌詞には、「今生きていること」への、どうにもならない居心地の悪さを感じる。

 7月2日、晴天。かなり暑い。我慢できずに早く来てしまい、リハの音を聴きながら初めてのライブを想像しながらビール。最高な気分。夕方になって、いよいよ開場。後ろまで埋まってうれしくなる。1曲目は「ジョニー」。
 “ばかばっかりのせんじょうに〜”と、たかはしほのかの声が響く。何だろう、この感じ。聴きたかった音、いや、感じたかった空気。そう、ここがいたかった場所だ。身体のどこかで固まっていた部分がゆっくり崩れていく。何かに包まれるような感覚。
 野音の空気に、3人のたたずまいが自然にはまって見える。リズムを刻み、一つになって、熱を帯びる。そこに流れるメロディーと、真っ直ぐに放たれた声、こえ。
 前半はミニアルバム「where?」からの曲が中心。ドライブ感の強いナンバーが多く、野音という環境で、より開放的な空気が広がる。こんなに音に包まれた感覚になったのは久しぶりのような気がする。ずっといたかった場所に、今いるんだ。そう思えた。
 そんな感覚を最も感じたのは、後半の「ハナヒカリ」「ノーワー」「1997」と繋がるシーンだった。細い糸をピーンと張ったような静けさの中で、悲しくて美しい情景が広がった「ハナヒカリ」。続く、”君は全てを体に入れて受け止められなかった〜”と歌う、「ノーワー」の歌い出しで、自分が今日何を求めてここに来たのかが、はっきりわかったような気がした。そして「1997」。その前のたかはしほのかのMC。
「1997年12月10日。私はこの世界の空白を一つ奪いました。そしていつかまたこの空白を返すまでのお話です。」
 それは、彼女が居心地の悪さを、音楽によって浄化しようとするような、音楽に向かう決意を吐き出した言葉のように感じた。そして始まったミドルテンポのビートが、うねって、うねって、その決意の強さを、見せてくれた。

 自分にとっての、ロックンロールに対する信頼というものがある。その前提は、日常と呼ばれているこの世界は、よく見たら、いつ全てが無くなってしまうかもしれない、何もない荒野のような脆い世界であるということ。そんな荒野に立って、どれだけ踊れるのか、楽しめるのか、気持ち良くなれるのか。音楽を聴く意味はそこにあった。当たり前も普通なんてものもどこにもなく、自分が感じている悲しみや怒りを吐き出して、楽しむこと、気持ち良くなることが何よりも大切だと思っている。
 リーガルリリーのロックは、そんな荒野にいる。今生きていることの危うさを、確かさを、叫んで、鳴らして、バンドのグルーヴに巻き込むことで、気持ち良くなれると感じさせてくれる。それは自分が一番自然でいられる、いたかった場所なのだ。

 アンコールのラストは、「蛍狩り」。ポエトリーリーディングのスタイルでこんなふうにバンドのグルーヴと一つになって展開していく曲を、他に知らない。光を放つ蛍に対して、”きみみたいな終わり方をしたい”と語りかける。いのちというもの。生きていくということ。そんなシリアスなテーマが、”輝きを放て”と繰り返し叫びながらラストを迎える。聴けば聴くほど、ロックンロールだ。

 半年前のあの時、自分が思ったこと。それは、絶対に「きみ」みたいに生きたい、いや、生きる、という決意だった。
 17年も頑張って生きてくれた、最後の日のあの瞬間まで、本当に全力で生きる意志を見せてくれた「きみ」に対して、それが自分にできる最大の感謝であり、決意だった。

 もうかなりいい歳のおっさんになったが、日々出くわす出来事にストレートに反応していたいと思う。冷静であることと、感情を表に出すことは両立する。でもそう思えるのは、リーガルリリーのような音楽がそばにあるからこそだと思う。
 この世界に存在している限り、「出会い」と「別れ」は何度も繰り返され、いつか自分自身も、この世界と別れていく。リーガルリリーの音楽は、そんな、どうしようもないほど当たり前の事実に、何度も何度も戦いを挑む。その音楽を受け取った自分も、まだまだ戦えることに気付いて、次に向かう。この空白を返す日まで、決意を持って、全力で。

スライダーズの頃(2006年)

そのころの自分は、ライブって、あんまり好きじゃなかった。
で、どうしてもライブに行きたい、って初めて思ったライブが、ストリート・スライダーズの武道館。
スライダーズ、っていうのは、
80年代の日本のロックバンドの一つのスタイルを強烈に残した、最初で最後のロックンロール・バンド。

ハリーと蘭丸、ジェームズとズズの4人で、
ロックンロールとブルースをミックスして、
そこにイメージをどこまでもふくらませた歌詞を散りばめ、

それでいてポップで、

だるくて、重くて、でもやたら腰に響いて、すうっと軽くなってくる、
めちゃくちゃ美しくて、どこまでも広がっていく、
あんなバンドは絶対に出ない、っていうバンド。

 

そのころは20才ちょっと過ぎたぐらいで、
まあ全てにおいて自信が無かった頃で、
何かのきっかけで、「エンジェル・ダスター」を聴いて、
だるくて、重くて、でもやたら腰に響いて、すうっと軽くなってくる、
スライダーズの音を、昼も夜も聴きまくってた頃。
スライダーズだったら、ライブ見てえよ、って思って、
でもスライダーズなんか、一緒に行く奴なんかその頃はいなくて、
というか、行くなら一人で行きたくて、初めて武道館に行った。
スライダーズのライブは、始まる何時間も前から、

髪をつんつんに立てて、どハデの、でもセンスのいい服を着た、
たくさんの「ハリー」や「蘭丸」がすわってじっと静かに待っていて。
実はかなり怖かったりするんだけど・・・。

会場に入ると、中にもやっぱりハリーや蘭丸がいっぱいいて。
で、開演を過ぎても、なかなかみんな入ってこないという・・・。
スライダーズは、なかなか出てこないんだ、ってことを、
みんな知ってるんだよね。

待ちくたびれるくらい待って、
やっと現れた4人が、あのリズムを鳴らし始めると、
初めて「エンジェル・ダスター」を聴いたときの、
だるくて、重くて、でもやたら腰に響いて、すうっと軽くなってくる、

あの独特のリズムが目の前でいくつもの世界を広げていって、
それをいつも欲しがっている自分みたいなたくさんの奴がそこに居て、
あーもう何もいらないって思える、トリップする感じが、
武道館いっぱいに広がっていって・・・。

なかなか始まらないくせに、
あっという間にスライダーズのライブは終わってしまい、
なんだかポカンとしてしまったけど、
でもやっぱり身体の中ではあのリズムがずっと続いていて、
満足したような、さびしいような、うらやましいような、
いろんな気持ちが残っていた。
そしてそれから、武道館でスライダーズを観るのは、
自分の中のきまりごとになった。


それから十年以上経って、
仕事が忙しくてあんまり音楽も聴かなくなってしまって、
スライダーズ解散!という記事にショックを受けながらも、
どうすることもできずにいたとき、
友達がTELしてくれて、
スライダーズのラスト・ライブのチケットが手に入った。
たった一度だけの、それも日曜の夕方、まだ早い時間に、
社会人のオレらのために、っていう彼らの思いがやたらと感じられる、
それだけでなんだかもう、どうしようもなくなってくる、
一日だけの、ラスト・ライブ。

久しぶりに彼らの音を聴いて驚いたのは、

だるくて、重くて、でもやたら腰に響いて、すうっと軽くなってくる、
あの感じが何も変わっていなかったってこと。
そして、こんな音を出すバンドは、やっぱりどこにもいねえよ、
って感じさせたこと。
解散ライブって言いながら、彼らの音は一つも色あせてなんかないんだ、ってことに
うれしいのと切ないのとが混ぜこぜになって、やったら熱くなってしまった。
いつもは短い彼らのライブとは違って、
とにかく代表曲を次から次へと演奏していく、
いつも通りMCもなく淡々と演奏していながら、
でもステージからは確かに特別な思いが伝わってきて、
もうすぐ終わってしまうって思うときゅーっと痛くなってきて、
自分にとってスライダーズの音は、やっぱり特別だったんだ、って思った。

「エンジェル・ダスター」も、「Boys Jump the Midnight」も、
「So Heavy」も、次々に始まって、そして終わって、
最後のアンコールはやっぱり、「のら犬にさえなれない」。

 

素晴らしい出来事を経験した、ってことは、
よく言われる以上に、その人にとって大きいことだと思う。
それが、その人にとっての誇りだったりすることもある。
で、そういうのがたくさんある人の話を聴いたりすると、
何だかとてもうらやましくなってしまう。

不思議なもので、
自分がストリート・スライダーズを聴いて、ライブに行ってた、
ってことが、年をとるほど誇りに思えてくる。

あきっぽい自分は、熱心なスライダーズ・ファンと比べたら
全っ然落ちこぼれのほうだと思うけど、
スライダーズを聴いてたってことが、単なる思い出なんかじゃなくて、
今の自分に確実に繋がっているような、そんな気がする。
そして自分にとって初めての「解散ライブ」がスライダーズだったことが、
すごく特別なことのように今でも思えてくる。

 

そして、もう一つのジマンは、
ハリーと誕生日が同じってこと。
実は、これはかなりうれしいんだ。